自然体

以前に天草で行われた中村 哲 医師の講演会を聞きに行きました。
それから数年来、私もペシャワールの会員として微力ですが支援してきました。

医師が以前の会報に書かれていた文章に共感しました。

いつも中村医師は日本のことを心配していたように思います。

ペシャワール会報 No.139 18p~19p から抜粋

飢餓の国 VS 飽食の国  飢餓のない国の精神の飢餓

PMS (平和医療団・日本)総委員長/ペシャワール会現地代表  中村 哲

共通の体験が薄れて

最近、「水や川の話ばかりで、ほかに話題はないのか」との声が身の周りにあった。
さもあろう、浦島太郎なのだ。
日本にいない時間が多く、共通の話題が少なくなっている。
現地でも水や川のこと以外は余り考えない。
干ばつの危機、治安の悪化ー現地の緊迫した動きは戦場にも等しく、ついゆとりがなくなる。

だが、日本の世情を思えば無理もない。
水道の蛇口をひねれば水が出てくるし、コンビニ行けば懐具合に応じて好きな食べ物が手に入る。
テレビ番組は四六自中、美食の作り方や、評判の店や料理を紹介する。味見をして「うーん、おいしい!」と叫ぶ場面が頻繁に登場する。
飢餓の世界から突然戻ってくる者は、違和感を覚える。しかし、それを日本で言うと座がしらけるから、調子を合わせて仲間外れになるまいとする。すると芝居じみた会話が空虚になり、自分の言葉が失われていくのだ。

かつては飢餓を体験した世代が社会の中堅に居た。
今なら凡そ八十代から上の方々で、男は兵隊に取られ、女は勤労奉仕に駆り出された。
戦中戦後は食料欠乏に悩み、財産を食料に変え、農村にあっては汗して食料増産に励みながら、生き延びてきた世代だ。
彼らが社会の中堅であった時代、飢餓の問題は多くを語ることなく同情と支援の手が差し伸べられた。
空腹を抱えるとの苦痛を見にしみて知っているからである。
「敗戦直後のことを思えば……」と言いさえすればよかった。
途上国の飢餓の実態が今ひとつ伝わり難いのは、時代が共有した体験が薄れていることも確かにある。

★都市化による自然認識のつまづき

しかし、それだけなら問題は永久に解決されない。
共感しにくくなったもう一つの背景は、全世界的な都市化である。
農業生産に直接かかわる機会がなく、食べ物の生産から口に入るまでの過程_生産し、集荷し、食する、そのパターンが実感し難くなってきている。
正確に言うと、それを観念の上で処理して特別視しないのだ。
自然相手の仕事は思い通りにはならないが、観念は容易に操作できる。

出来ないことでも出来ると思い込む。
水泳の本を読めば泳ぎができる。
情報を集めれば全世界がわかる。
差別語を言い換えれば差別がなくなる。
危機管理マニュアルを作成すれば事故を減らせる。
この倒錯はキリがない。

市場で実物取引がわずかになったように、現代は言葉の洪水の時代で、実が失われていく時代だ。
自分で経験で確認しない知識は偽モノになりやすいということだ。

かつて日本人の大半が農村にルーツを持っていた。
職を辞して「邦に帰る」とは、援農で暮らしを立てることであって、無職になることではなかった。
行き詰まったとき、いつでも温かく迎えるのが故郷であった。
故郷に戻りさえすれば最低限の食べ物には困らず、変わらぬ人間関係が温かく迎え、貧乏でも飢え死にしないという安心感があった。
アフガニスタンではないが、行きていく上でカネが余りかからなかったのである。
現在のような都市化は農村の衰退と裏表にあり、日本人のふるさと喪失と一体である。

しかし、サービス業だけでは社会は成り立たないから、誰かが農業や漁業を営まなければならない、労働力が足りなくはないが、知識を崇拝する都市化社会では身体を使う仕事が低く見られる。
つまり農漁業は敬遠され、その分を外国人に頼ることになる。健全な社会とは思えないが、世の中の流れはそうなっている。

さらに、交通手段が発達し、お金や者の移動が速やかになった現在、「必要なら外国から買えばいい」という意見が一般的だ。
第一、「経済成長」が現金収入の多寡で量られ、それを増やすのが善だと指導されるから、杭いようがない。

農民を支配した昔の武士や貴族でさえ、こんな考えは持たなかった。
豊作の祈願は重要な神事であり、武士の大半は農業をも生業とした。
亡国などと大袈裟なことを言いたくないが、ご先祖さまが営々と築いてきた遺産をないがしろにするのは、大切なものを失うようで、何だか合点がいかない。

かつて「晴耕雨読」とは知識人の理想の生活だった。
耕すとは、自然相手の農の営みで、知識に実を伴わせる知恵があったと思われる。
人が自然の一部である限り、不自然な都市化は長続きしない。
やがて人々がスピードや競争、派手な自己宣伝や奇抜さに疲れ、その空虚さに気づくとき、静かな郷愁を伴って本来の自然との関係が姿を表すような気がしてならない。

           ペシャワール会報 No.139 18p~19p から抜粋